ぬいぐるみの向こう

夢が良い雰囲気だったので書き起こしてみました。

 その子はぬいぐるみの体で登校していた。
 少しくたびれた白い布の肌に、茶色いぶち模様のある犬のぬいぐるみ。
 その中に遠隔操作のできるカメラやアームが入っていて、中身の子が実際どこにいるのかは誰も知らないけれど、その子はその子としてクラスにいた。
 授業のノートを見せあってテスト勉強を一緒にしたり、おもしろい動画を見つけたら教えたり、雨の日に一つの傘をさしてお互い少しずつ濡れながら帰ったりした。
 その子と私は仲良しで、私は正直その子が好きになっていた。
 それとなく、好きだ、特別だという態度を取っていたから、周りの子たちには「あの二人はほぼカップル」だって見られていたし、その子も否定しないものがからきっと気持ちは知っているのだと思う。
 だけどお互い、ぬいぐるみの向こうとこっちとで、決定的な何かを届けることはできないままでいた。

「うわ、なんかいいにおいがする」
 ぬいぐるみに鼻が付いた。
 新しく、遠くのその子にも届く近くの情報が増えた。
「その場のにおいが届くパーツなんてあるんだ」
「うん。思ってたよりはっきり。ちょっとしたにおいも鼻に入ってくるや」
 クラスメイトとその子はそう話していた。
「みんなそれぞれ、色んなにおいがするもんだね」
 そう言ってその子はぬいぐるみの鼻をヒクヒクさせた。
 そして私のそばまで来て、うろたえるように「いいにおいがする」と言った。
 私は照れくさいながらも、たぶん石けんのにおいだと思うよと答えた。
 本当はぬいぐるみに鼻が付く前から、なんとなく校則にひっかからない範囲でおしゃれしたくて、しゃぼんの香りがそれとなくするコロンをつけていた。

 しばらくして文化祭の買い出しに二人で行った。
 正しくは、クラスメイトたちではしゃぐための飲み物やお菓子の買い出しに代表して行ったのだ。
 カルピスソーダにオレンジジュース、ジャスミンティーの2リットル入りペットボトル、それからミニドーナツやハッピーターン、カントリーマアムみたいな小分けしやすいお菓子。
 薄手のナイロンの買い物バッグに詰め込んだら、生地が伸びきるんじゃないかと思うほど、バッグの底は重みで真ん中だけポコンと膨らんでいた。
 持ち手も手のひらに食い込んで痛いぐらいだった。
「これさあ、ひとりで持つよ」
 ぬいぐるみの手は痛みを感じない。
 でも私は二人で持ちたかった。
「せっかくだから、分けて持とうよ」
 持ち手の輪の一つはぬいぐるみの手の中に。
 もう一つの持ち手の輪は私の手の中に。
 ちょっと手を繋いでいるみたいで嬉しかった。
 黙ったまま歩く二人の間で、ゆらゆらと買い物バッグが揺れた。

 お楽しみは先生に見つからないよう、夕暮れの中、外階段を上がってこっそりと教室に届けるのが私たちの任務だった。
 秘めやかに事を運ぶという空気が、かえって私の気持ちを大胆にさせた。
 ほとんどの物がオレンジ色に染まっている景色は、校舎を一階、二階と上がるごとに美しく見えて、私は二人でこんな景色の中にいられるのは贅沢で楽しいことに思えるねとはしゃいだ。
 たどりつくべき教室のある階まで上がってきて、名残惜しさを感じた私は、くるりとその場でゆっくり、買い物バッグにつないだ手をねじったり離したりしないようにしながら後ろを振り返った。
 ぬいぐるみのカメラにもこの夕焼けはハレーションしたりせずに見えているのだろうかと思いながら、また前を向くと、階段の最後の一段を、片足を宙に浮かせて着地させるような感覚でそっと踏む。
 ふわりと風が吹いて私の髪がレースのカーテンのように揺れた。
「いいにおいがする」
 ぽつりとぬいぐるみはそうつぶやいた。
 私は照れ隠しに、
「見て、こんなにアトがついちゃった」
 と買い物バッグの重みで残った赤いアトを見せた。
 つられてその子もぬいぐるみの手のひらを見せた。
 赤くはなかったけれど、布が少し毛羽立って一本線の形にへこんでいた。
「おそろいだ」
 私がそう口にすると、ぬいぐるみの目は私の手のひらをじっと見てから、慌てたように
「やっぱり、持つよ。残りの分は」
 と言って、私の手の中にあった買い物バッグの持ち手をもたもたと奪って、一人で教室の方に走っていってしまった。
 自分の手のひらに残った赤いアトを夕焼けで照らして満足してから、私も教室に走っていくことにした。