08.晩餐会②

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「……帰るぞ」
 玄関ホールの方に出て溜息まじりに言えば、メイド長が寄ってきて外套を着せ掛け、帰り支度を手伝う。
 夫人は食事を終えるとすぐに部屋に戻ったらしく、残された親族一同どこかほっとした雰囲気で、食事後の談笑もそれなりにはしたが、たくさん話せば話すほど父親の威光のメッキもはがれるというものだ、と自分から何かを話し出すことはしなかった。また親族たちも今日確かめたかった主要な話題は、姉と弟のどちらを父親の後継者にするかということであって、晩餐会の名目もあり正式にそう口にした者はなかったが、両者が会話の言外にそれぞれの力量で器であったりを披露するのをぼんやり聞き流している内に、その場の全員が確かめるべきことは確かめられたらしく、この夜はお開きになった。
 ……本当はもう食事を終えたらさっさと自宅に戻って休みたかった。夫人と言い争いをしたという事実がじわじわと効いてくる衝撃として体にあった。そう意識していなければ、体の震えが出そうだった。小さい頃に母親と自分のことをひどく言われたことが忘れられず、一時は父親が他者に対してひどいことをする、夫人と同じようなタイプの人間なのかと疑ったことがあるぐらいには、幼い自分に影響した出来事だった。
 自分に期待をしてくれているメイド長がいる手前、せめて逃げないことが自分にできることだったので、なんとか最後までいたのだが。
「遅くまでいらっしゃいましたね」
「うん、そこそこに出ようと思っていたが、いつ帰ると言おうか図り損ねて……もう最後まで残るのが変に目立たないなと……」
「さようでございましたか、わたくしめ、てっきり坊ちゃんが姉君になされたように弟君にも宣戦布告でもなさるものかと考え、わくわくしながら控えておりました」
「どうしてそう過激なんだお前は」
「まったく、どうしようもないメイドですね……」
 声がした方を見れば、腕を組んで不機嫌そうに微笑んでいる弟の姿があった。
 その微笑み方が父親にそっくりで、小さな主は血の繋がりを感じずにはいられない。
「……! いやでもそっちかぁ……」
 ―すぐに、その感慨はメイド長の声で消えてしまったが。
 小さな主は慌てて弟とメイド長を結ぶ直線状に割って入るように立つ。
「ああいや、本当に私に力が無いばかりに、もうこういう者しか残ってなくてだな……」
 言い訳の内容すら情けなくて、肩が落ちる。
「……そのメイドへの文句は少し置いておきましょう。大事な話があります」
 弟の顔から微笑みが消える。
「まったく、です。兄上。兄上はどうしていつもそう、」
 弟の言葉の温度が上がっていくのを感じて、爆発に耐えるように身を固くする。
「どうして僕の思い通りにならないんだろう……すばらしい」
「……? うん、えっと、すま……すまない……?」
 よくわからなかった。
「まったく。ほとんどの者は僕の計算通りに動いてくれるというのに……。兄上には正攻法しか通用しないということですか。すなわち、直談判ですね。さあ兄上、お話しましょう。跡継ぎの件です」
 弟が至極真面目な顔で言うので、気おされて小さな主はしどろもどろになる。
「……ああ。あー、わ、私は……私が後継者になるべく……がんばりたいなと……」
 控え目になってしまったが、はっきりと自分の口で宣言できたことに自分で驚きつつ、小さな主は弟が姉のよう怒りはしないかとさらに体を固くする。
 しかし。
「さすが兄上、やはり兄上。兄上の繊細なお心からこの争いからは降りられるかと思っておりましたが……この僕の気持ちも汲んでくださる賢さとお優しさをやはりお持ちでしたか」
「……つまりどういうことだ?」
「―兄上。僕は兄上に父上の跡継ぎになっていただきたい。つまり僕は、有体にいえば兄上派だということです」
 やはりよくわからなかった。
 小さな主は弟が何を言っているのかわからず、頭の中でぐるぐると『あにうえは』という単語を巡らせるばかりで、弟の顔を見つめるばかりだった。
 弟の頬は少し赤みがかっている。
「兄上。僕はもちろん偉大な父上のご遺産を守りたいと思うと同時に、なにより兄上と大変……末永くこれからも仲良くしたいと思っているのです。兄上と仲良くできるということが何よりも僕の望みなのです」
「そう、なのか?」
 思ってもみなかったほどの弟の強い想いの言葉に、素直に驚いてしまう。しかし同時に、先ほどの集まりでは確かに、弟も父の後継者となりたいというような話をしていたように聞こえたが、勘違いだったのだろうか、と表情を緩めない小さな主を見て、弟は目を細めてにっこりと笑った。
「先ほどの集まりでは、僕自身が父上の跡継ぎとなるような話をしていましたが、それは策なのです」
「策?」
「ええ、考えてもみてください。僕は別に父上の家を継ぐ者にならずとも、母上の家を継ぐ道があるのです。もちろんどちらの家の跡継ぎともなり、僕で富だの権力だのひとりじめしてしまう手もあるのかもしれませんが……僕の母上はお体も心も柔らかいのですから、ひっそりとこのまま暮らしていかれることを望むでしょうし、僕も忙しくして母上のご様子を見れなくなる生活は嫌です」
「うん、そうだな。義母さまは妃を輩出するぐらいの、もともと名家なのだ。確かに……その血筋でいえば、お前しか後を継ぐ者もいない状況、だったな」
「そんな僕がどうして父上の跡継ぎを名乗り出たか? それはひとえに、兄上を擁するためです」
「……姉上ではなく?」
「あはは、姉上なんか、別に父上の跡継ぎとならずとも、もう充分立派なお家の嫁いであれだけ大事にされていらっしゃるのですし、充分ご活躍もされていますし、父上の跡継ぎという立場などいらぬでしょうに」
 随分とはっきりものを言うので、姉が傍にいやしないかとつい首を動かして周りを見てしまった。そのようなことは先刻の談話ではひとつも話さなかったくせに、気軽に言われては、どぎまぎしてしまう。
「いや、まあ、それはそうかもしれないが、姉上は姉上なりに父さまに対する想いがおありなのかなと」
「兄上は本当にお優しいですねえ。もちろん僕も姉上が父上を大事に思うが故に後を継ぎたいとおっしゃってるのはわかっていますが……まあ姉上にはきっとその内父上の遺された座が却って不自由になるんじゃないかとか……いいえ、まあそのような僕の予測はおいておいて」
 弟は困ったように眉を顰める。
「兄上ったら、いまや後ろ盾のすべてが無い中で、他の後ろ盾がある家族の心配などしている場合ではないと思いますよ」
「うん……」
 弟としゃべると必ずもっともなことを言われてしまうので、つくづく自分の足りなささを痛感させられる。反論するところもない。
「でも……そんな兄上だからこそ。この僕が代わってさしあげようと思ったのです。父上の座を奪うことに関して、ね。そして僕が首尾よくその座を手に入れたら、あとは兄上にお譲りする……。と、考えていたのに。そこのメイドですよ」
「メ……メイド長?」
 突然、弟がまた父親にの冷たい笑顔を浮かべてメイド長を見たので、小さな主は声が裏返りかけた。
「今日、さっそく僕が兄上と共に跡継ぎの座を目指すことを披露しようと思っていたのに……僕が兄上をお守りするはずだったのに、メイドが兄上を先に守ってしまったのですから」
「あ、そう、その、さっきお前の主催の晩餐会を乱すような振舞いをしてしまったことについては、この私に責任があるのであって、あの者は私をかばって、」
「いけません兄上、兄上を責めているわけでも謝罪のようなことをしていただきたいのでもなく……。それはどちらかというと僕が謝るべきですから。おば上のせいで嫌な思いをさせてしまいましたし、姉上が扇子を折られた時にまさか兄上が止めに入るとは思っていなかったので……あの兄上の予想の裏切り方、とっさに言うべきセリフを驚きで言えぬままになるほど、素敵でした」
「うん……うん?」
 またよくわからなくなってきた。
「兄上はきっとお止めになれないと思っていたので、僕があそこで止めに入れば、兄上と僕との二人で父上の座を目指すことが見せられたのに」
「…………」
 弟が自分をどう思っているかわかり、小さな主は一歩、後ずさりした。弟は気にもせず残念そうに言うだけだ。
「みんな僕の思った通りに動くのに、兄上だけは昔からそうはならない……そこが兄上の良いところですが、今宵もこんな風に僕を裏切るなんて……すばらしいと共に、僕はちょっと困ったのです、あの時。でも兄上のなさったこと、楽しめる範囲でしたが、メイド!」
 弟の目が笑う。襲い掛かるために目を細めて狙いを定める鷲のように。
「どうなんでしょう、僕が何を考えていたのかあなたがどこまでわかっているかわかりませんが、これほどひどい優れたメイドがいるとは思いませんでした。兄上のところから逃げてきた信用ならないメイドの話は半分に聞いていたとはいえ、これほどまでとはね。あなたがあそこでおば上に話しかけたせいで、父上の跡を継ぐ宣言をしたのも、そのために反抗したのも、全て兄上だけが行ったことになってしまった。僕を裏切るのは兄上だけにしか許していないというのに、この僕を勝手に裏切る行い、兄上の従者としてもとうてい許せないですよ?」
 父親と同じかそれを超えてすらいるのではと思うほどの笑顔の圧だった。小さな主は悲鳴をあげそうになって慌ててメイド長の方を振り返ったが、そうしたことでメイド長が一瞬嬉しそうな顔をして真顔に戻ったのを見て、やっぱり一歩退いていた分を、弟の方に近寄りなおした。
 メイド長は礼を取って頭を下げながら言う。
「恐れ多いことです。わたくしめそのようなところまで考えは及んでおりませんでした」
「考えが足りないというよりあなたごときが何かを考えたことが間違いです。僕は結構怒ってますよ」
「さすがは父君の血をひかれるお方、ご立派です」
「……それはどうも」
 メイド長が平常運転すぎるのでツッコミかけたが、弟があまり動揺せず受け流し、まだ微笑を浮かべ続けているので、小さな主は二人の間に立って入った自分を後悔した。
「ですが、我が主をこれ以上いたぶるような行い、いくら血の繋がる方といえど見過ごせません」
「おば上が言ったことについては身内として、またこの家の実質の当主として謝ります」
「いいえ、おば上様ではありません。弟君、あなた様が我が主をいたぶっておられたのです」
「……あはは、この僕が最愛なる兄上をいたぶった、ですか」
 まだ少しは温度のあった弟の声が、一気に冷え切ったものになる。小さな主はうろたえたが、弟はメイド長以外を見ようとしない。
「メイド。あなたがそのような発言をすれば、それは兄上の言葉ともなるのはわかってのことでしょうね。僕はあなたの今の言葉を、兄上がやらせた無礼と取ることができますよ」
「これは父君の跡を継がれる我が主にとって重要な事実でございます。私が言を発する必要があるのならば、我が主の命を背負っていようが、その言で我が主さえ活路を開けるのであらば黙ることはいたしません。もとよりわたくしめの喉さえも、先代様から我が主に遺されたものと自負しております」
「…………父上の名前まで出し、そんなに喋りたいというのならば、喋ってみなさい。一つでも間違えた場合はあなたは兄上にふさわしくないと見なし、どんな手段を使ってもあなたには去っていただきます」
「僭越ながら。まず弟君が我が主をいたぶられた、というのは、具体的には伯爵夫人様の今晩の同席をお許しになったのは、他でもない弟君ゆえです。私も先代様に付いて何度か晩餐会の場にいさせていただいたことがございましたが、先代様がいる限り伯爵夫人様を晩餐会に招くことはどなたもなさいませんでした。先代様のご機嫌を損ねることを恐れたからでもありますし、万一坊ちゃんがまた来られるとなれば問題があることが明白だからです。男爵夫人様も先代様がいらっしゃる限りは出席しないとお決めになっていたようでしたが」
「…………」
 晩餐会は、人数分の食事を用意するために招待制である。自分が来るかどうか気にしていたということは、自分あてにも招待状が来ていたことに他ならない。それが自分が知らなかったとなると、父親が黙殺してくれていたものだろうか。
 父親にやはり弱い奴だと思われていたのかと、小さな主の心に影が差す。
「ところが、本日男爵夫人がいらっしゃった時点で、わたくしめは弟君が我が主をいたぶるつもりだとわかったのです。男爵夫人はなによりも弟君のご身内。弟君の母君の妹でいらっしゃるでしょう。これまでも男爵夫人が晩餐会に参加なさらないように、何よりも母君がお気を回され、代わりの旅行を手配するなどされていたと聞き及んでおります。それが、今年は男爵夫人が直接非難なされた我が主が来るというのに、弟君はまったく何もなさらなかった。男爵夫人が先代様がお亡くなりになったことに気をよくして今宵のようなことになるのは、賢い弟君には必ずわからないではなかったでしょうに、それをお許しになられた。わかっていて見過ごす、これがあなた様の意思で我が主をいたぶったと申し上げる根拠にてございます」
「そうですか、思い込みが激しいのでは? おば上も久しぶりに親族一同に会し、あまりにも調子が良くなられていたと、それだけですよ。止めきれなかったことについては先に認めて謝った通りです。そもそも僕が兄上をいたぶる理由もないでしょう」
「いいえ、ご自分でおっしゃったではないですか。我が主を擁したかった―弟君なしでは我が主が跡継ぎの座につけないという印象を与えたいがために、おば上の存在を許されたのです。おば上が我が主を傷つけることがわかっていながら、自分の立場を作るためにおば上を利用された。おば上という道具を使って弟君が我が主をいたぶったといえましょう」
「―それがわかるあなたなら、やはり取り除いてしまわねばなりませんね」
「覚悟の上でございます。しかし私も先代様より坊ちゃんをお預かりする身、簡単には除かれません」
 弟の笑みが一段と深くなり、手が挙げられた。まさか、メイド長を始末するような合図か、と小さな主が青ざめた時には、それは終わっていた。
「あいたっ」
「はあー……これで逃げもされないんだから、僕もまだまだなんですね……」
 弟にでこを弾かれるメイド長の姿があった。額を抑えてはいるが礼の姿勢を崩さないあたりがメイド長らしかった。
「お戯れでございますよ。先代様なら排除『する』などとおっしゃいません、排除『した』しか言わないお方でしたから。自分の行いを予告するだなんて、本気でないことがわかるというものです」
「……あの父上に仕えただけのメイドではあるということか。今まではどこがどう他のメイドと違うのかと思っていましたが、僕にも見抜けないものはまだまだあるということか……さすが父上」
「ああでも、本気を出すほどの相手でもない場合は予告もされていたような……なんにせよ弟君、そのようにわたくしめをお試しにならずとも、わたくしめの忠誠が揺らぐことはございません、なぜなら我が主はわたくしめの性癖ですから」
「はいはい」
 弟のメイド長の受け流し方が見事だった。
「ふーんだ、試すも何も、そんなことしてませんよ僕は。本当に不愉快だっただけです。……不愉快なぐらい、あなたはきっと、兄上と共に歩いて行ける従者だ」
「いいえ、わたくしめは坊ちゃんの踏み台でございます、共に歩くなどと」
「謙遜のような願望はやめてくれ」
 我に返ってメイド長の発言を止めると、弟が寄ってきて手を握る。
「兄上……あの者がいった通り、僕はわかっていて今晩、おば上の同席を許したのです。大変申し訳ありませんでした」
 ギュッと強く両手で手を握られ、弟の悪いと思う気持ちも、自分が大丈夫か心配する気持ちも伝わってきた。
「……私が後継者争いに躍り出る以上、男爵夫人を避けることはできない。それも覚悟してもともと今日、ここに来ていたよ。気にしないでくれ。気にするのなら、私がお前にそこまで気を回させるほど力のない存在だということを許してくれ」
「兄上……」
「それに、本当に、大丈夫だ」
「え?」
「意外と、大丈夫だったんだよ。……男爵夫人に怯える気持ちは確かにあったが、なんだか、怖がっていた自分を不思議に思える。苦手な人であり続けるとは思うが、あの、メイド長の言葉で、あっけにとられた顔を思い出すと、なんだか……」
 ふふふ、と小さな主は笑いをこぼす。
「……あんな顔、やっぱり、珍しかったですよね」
 つられるように、クスクスと弟も笑った。
 ひとしきり笑うと、弟はまっすぐに兄の目を見る。
「もっと子供の頃、兄上とこんな風に笑うのが……僕は楽しくて。姉上とも良い思い出がたくさんあるけれど、……ほとんど年の変わらない、友達のような、兄弟のような、兄上と大人になっても色々やっていけたら、どれほど面白いんだろうって、僕はそう思ってます」
「そうだな……。私もそう思ってるよ」
「では」
「だけど」
 二人の声が重なった。
 弟が自分の言葉を待っているのを確認して、兄は言う。
「だけど、大人にちゃんとなりかけているお前と違って、私はまだ子どもなのだろうから。私はちゃんと大人になるよ」
「兄上……」
「今日はありがとう、私は本当に……今晩、ここに居てよかった」
「……わかりました、こちらこそご満足いただけてなによりです」
 弟の手がそっと離れる。その温かさを、自分はずっと覚えているだろうと小さな主は思った。
「なんだか、僕、人にさくらんぼをおすすめしてるだけの主催になっちゃったなって反省はしてますけど。……メイド長さん」
「はい、なんでございましょう」
「あなたの先代に渡って抱き続ける忠義に免じて、僕に率直に色々言ったことは許してあげます。父上があなたを色々なところに連れまわった快適さも少し体感できましたし。……僕は、僕と兄上の二人で作る理想郷を諦めません。あなたが兄上を本当に父上のようにしたいと願うのなら、兄上をこの僕からよく守ってください。僕に守り返されないように」
「はい。つまりは弟君はわたくしめの性癖の同志、ということでよろしいですか?」
「いや全然違いますよ? 僕は兄上だけです」
「……うん、二人はなんの話をしているんだ?」
 小さな主は果たして本当にこの夜ここに居て大丈夫なのか、不安になった。