07.掃除

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「……あ」
「坊ちゃん。失礼いたしました、坊ちゃんの気配に気づいて、坊ちゃんがドアをお開けになる前に掃除を完了させるべきでした」
 ズラリと壁の全面が本棚になっている、ちょっとした広さの書庫。
 メイド長ははたきを動かす手を止めて、ドアを開けて入ってきた小さな主の方を振り向くと、頭を下げた。
「いや、いいんだ。今日は書庫の掃除をしていたのか」
 小さな主は胸の前で手を左右に降って、気にしない態度を示す。
 小さな主からすれば、ふと、亡くなった父親や母親が暇となれば本を読んでいたことを思い出し、自分も何か読みたくなって、ふらりと訪れてみただけなのだった。
 メイド長が頭を上げるのを見てから、なんとなく壁に近寄って本棚を見上げると、確かに記憶にある父親が読んでいた本のタイトルが並んでいる。あの一群を読んでみよう、と小さな主は手を伸ばすが、届かない。メイド長に、取ってくれ、と言おうとしたが、せっせと本の一並びずつにはたきをかけている姿を見ていると、邪魔をするのも、と遠慮の気持ちがわいてきて、脚立があったはずだと首を動かして探してみる。
 中央に置かれた読書用の安楽椅子とテーブルの向こう側に、脚立らしきものの茶色い足が見えた。
「ん……」
 近寄ってみれば、それは足が一本無くなったテーブルの支えとして使われていたのだった。これを抜き取って使うわけにはいかないな、と困っていると、目ざとくメイド長が寄ってくる。
 小さな主は慌てる。
「掃除を続けてくれたらいいんだ。何も、どうしても高い位置にある本から読みたいわけでもない。そのあたりのを適当に持って行くから」
「父君の読まれていた本が読みたいのでしょう? 難しいところもありますが、さっき坊ちゃんが見ておられた本は、坊ちゃんも楽しく読めるものかと思いますよ」
 こっちを見ていない時がやはり無いのだろうな、と思いながら、メイド長が本の内容を把握していることに、小さな主は驚く。
「お前も読んだことがあるのか?」
「文字の読み書きはお屋敷に来てから一生懸命覚えまして。父君はお忙しい方ですから、ちょっとしたお時間でも『読んで聞かせよ』とおっしゃって、わたくしめが読み上げさせていただくことも多かったものですから、がんばった甲斐があったというものです」
 小さな主は、父親がメイド長に読み聞かせをさせているところを想像し、納得する。
「なるほどな。まあでも、本当にどんな物でも読みたいと思っているから、手近な段のものを持って行く。これとか」
机に最も近かった位置の本を適当に手に取り、小さな主は表紙を見る。
「それは時刻表でございますね」
「……本当だ。じゃあこれで」
「それは領主と領地の一覧表でございますね」
「……まさか、父さまも母さまも、こういった実用的な本しかお読みでなかったのか」
 フフフ、とメイド長は薄く笑いを漏らした。
「よくお使いになる本が、だいたい本棚の中段や下段に納められているのでございますよ。ご覧いただいた通り、普段読むような読み物は無くて……物語や詩などは上段にあるのです。ですので……」
 メイド長は残念そうに言う。
「さすがのわたくしめでも上段には、脚立無しでは手が届きませんし……でも脚立はこのとおりです。そこで坊ちゃん。どうぞわたくしめを脚立がわりにお使いくださいませ」
「なんだって?」
「踏み台にお使いください、ということでございます」
 残念そうな口調とは裏腹に、何のためらいもなく『踏み台』の形をメイド長が取ろうとしたので、小さな主は慌ててメイド長の手を掴み、ひっぱった。
「そ、そういうことを軽々しくするんじゃない!」
「? そういうこととは」
「人間を踏むなどと……正気の沙汰か?!
「父君ならなんとも思わず、踏んでおられたと思いますが」
「そこまでくると父さまもおかしかったのではないかと疑ってしまうから、あまり詳しく離さないでくれ」
 確かに父親ならやっていてもおかしくなさそうなぐらいの不遜さはあったが、さすがに使用人とはいえ、罰でも無いのにそんなことをする父親というのはどうかと思う、と小さな主は不安になる。
「わたくしめからすれば、性癖に踏まれるなんて褒美ですので、主人が使用人に褒美を与えるのなんて何もおかしくないと思いますよ」
「そうなんじゃないかとは思ったが口に出されると辛いな」
 メイド長は口を尖らせる。
「わたくしめ、喜んで踏み台でも靴の泥落としマットにでもなります。けれど、難しいところなのです……。父君にはいつも完璧をご提供するのが当然ですから、踏み台が必要な場所には完璧な踏み台を用意しますし、泥落としマットが必要なら完璧に泥が落ちるマットを用意いたしておりましたから……。実際にわたくしめを使っていただける機会はございませんでした」
「うん……父さまへの尊敬の念を失わずに済んで良かったよ……」
「ですから……これは良い機会かと思い……坊ちゃんにはぜひ!」
「落ち着け」
 もはや本音を隠そうともしないメイド長。小さな主は掴んでいた手をぶん投げると、たじたじと二、三歩後ずさった。窮地を切り抜けるべく頭を回転させ、なんとか救いの閃きを得る。
「そもそも! 私が脚立を使っている間は、お前がその机を持って支えれば良いではないか!」
「なんと」
 メイド長は雷に撃たれたような顔をした。小さな主は畳みかける。
「そうだ、そうすれば良い。それともお前は、私が直々に棚を見て、好きに本を選ぶのを邪魔する気か?」
「めっそうもございません」
 メイド長はサッと立ち上がると、机に寄り、その端を持った。
「わたくしめとしたことが、頭が足りず申し訳ございませんでした。どうぞお使いくださいませ」
「頭が足りないというより自分の欲求に囚われすぎだ」
「ちなみに、先ほどのお叱りの仕方、とても良かったです。引き続きあのようにお叱りください」
「……」
 小さな主はそれには返答はせず、脚立を引っ張り出すとさっき見た何冊かの本を取り出した。タイトルからなんとなく予想はされていたが、少しパラパラとページを見たところ、やはり古典文学作品のシリーズが並べられていたようだ。
 あの父さまがこういった文学を読んで、何をお考えになったものか、感想を聞いてみたかったところだな、とぼんやり思う。少し、胸の奥に針で刺されたような痛みがあった。
 一抱えの本を、メイド長が支えている机の上に置くと、小さな主は脚立をそっと元の位置に戻す。
「――よし。もう手を離して良いだろう」
 メイド長は小さな主の手が脚立から完全に離れていることを確認すると、机の天板を静かに降ろした。
「談話室ででも読書されますか? でしたら、お好みのお飲み物とお菓子と、クッションをいくつかお持ちしますよ。膝の上にクッションを載せて、その上に本を置くととても読みやすくなりますから」
 メイドの数がもっといた頃ならばいざ知らず、ただでさえこの屋敷や自分の世話を一人でこなしているのだ、なぜわざわざ仕事を増やすような提案を親切にこちらにしてこれるものか。
 ……いや、そもそもなんで屋敷や自分の世話をたった一人で回していられるのか、常々疑問ではあるのだが。世話をかけないように、それとなく何事も自分でやるようにしてみたり、呼びつけたりもしていないのだが、だいたい先回りしてメイド長が準備していたり待機していたりするので、結果的に世話をさせてしまっている。
 この部屋の掃除もまだ半分ほどしか終わってないように見えたが、手をつけたところは明らかに綺麗になっていた。他にメイドがいた頃よりも綺麗になっているように見えるのだから恐ろしい。ここまでされて、当然、その働きぶりには何も文句は無い。
 文句は無いが……小さな主は、なんだか自分が主らしく感じられず、胡乱な目でメイド長を見た。
 なんというか……ここまで世話をされると、犬や猫のペットが甲斐甲斐しく可愛がられるのと何が違うのだろう。
 思わず口から本音がこぼれ出る。
「最近、ただ私は、駄目な性癖の人格の駄目な女の手慰みにチヤホヤ生かされてるのでは、などと思うところがあってな」
 メイド長は憤慨した。
「まあ! どこの失礼な女ですかそれは? わたくしめが成敗してまいります」
「お前のことだ」
 小さな主は白い目を向けたが、メイド長は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。
「わたくしめですか? なるほど、確かに女として駄目な部類に入るのだとは自覚しておりますが、それはご無体というものです。父君や母君、坊ちゃんほど美しい方に囲まれていればわたくしめなど、『鶴だめのくず』でございますから、鶴のファミリーから見れば使用人など皆、駄目にお見えになって仕方ないでしょう」
「……? すまない、掃きだめの鶴、の掃きだめがお前……って意味か? それは自己否定が強すぎてわかりにくい……とかじゃなくて。あー、見目がどうとか女としてどうこうではなくて、その、お前の態度が、というか、まさかお前、というか」
「なんでしょう?」
 突然、小さな主がしどろもどろと、言葉を噛みながら言うので、メイド長はかがんで小さな主の口元に耳の高さを合わせ、方眉を上げて聞き返す。
「その……私が恐れているのはだな。ぜひともそうであってほしくないのだが」
「はい」
「お前がこの家を乗っ取ろうとしているのではないか、ということだ」
「? 乗っ取る、ですか?」
「そうだ、つまり、なんだ、例えば私の世話をかいがいしくしてゆくゆくは婚姻関係を結ぶとか……そういうことだ!」
 まだ十代前半の小さな主からすれば、異性に向かって結婚がどうとか言うのは、気恥ずかしく感じられた。同時に、どうか『よくわかりましたね、その通りです』なんて言わないでくれ、と必死に願っている自分に気づくと、メイド長以外の者に見捨てられたことが嫌な感覚として自分に付いてしまったのだと知る。
様々な羞恥心から、小さな主は顔を赤くしていたが、一方でメイド長は人間の顔がこのような色になるのかと思う程、深く、青ざめていた。そういえば自分が『婚姻関係』という言葉を口にしたタイミングで、サーッという音が聞こえたような気がしたが、それが血の気の引く音というやつだったのか、自分の顔に熱がのぼる音だったのかはわからない。
「こん……こん? そのような……」
 メイド長は青い唇を震わせると、口元に手を当て、胸がつかえて気分が悪いかのように呼吸をする。
「あまりにも解釈違いというものです。考えられません」
「そうか、安心したよ。……安心したはずなんだが、なんだかそれはそれで、失礼な反応だと思わないか」
 安心したはずなのに、メイド長の泣きそうな顔が目に入ったからか、頬をひっぱたかれたようなショックが小さな主の胸を襲った。喜ばれても困るが、そこまで嫌がられるとなんだか傷つく。思ったよりショックが大きかったのがなぜなのか全くわからず、小さな主は困惑したが。
 いやいや、落ちつけ、と首を振る。
「悪かった、お前を疑ったりして。そうだな、お前は純粋に私に仕えてくれているのに」
「はい、純粋に性癖を満たすためにお仕えしております」
「今の『悪かった』は無しだ、あれか、婚姻とかでさえ生ぬるいのか、何か私を手籠めにする気か……!」
 十二歳の少年の異性を意識する心はふっとび、ただゾッとする推測がなされる。
 しかしメイド長は、まだ苦しそうに胸元を押さえながらではあったが、力強く反論した。
「坊ちゃんは性癖というものをわかっていらっしゃいません! 性癖とは恋心……やましい心から出るものではないのです! 性癖とは……魂の震え!」
「そ、そうなのか」
「そうなのです! 魂の震え……我ながらこれ以上ぴったりな言葉は他に無いと、誓えます。わたくしめは高貴で高慢な金髪赤目の方を前にすると、もう無心に無条件に頭を垂れてかしづいてしまうのです」
「うん……」
「なぜならそれは高貴で高慢な金髪赤目の方は神様のようですもの。いえ、ようとかではなくて神様なのですもの。金髪赤目の方を中心に世界は回っているのです。すごく自然なことなんです。それがこの世の真理!」
「すまなかった、私が悪かった」
 どうやら、自分が仕えている理由を『恋心などのやましい心』と結び付けられるのは、相当やってはならないことらしかった。
 こういうことをなんというのだっけ、ああ、そうだ、『地雷を踏みぬいてしまった』だったか。と、小さな主は、もはや狂乱気味に反論するメイド長の姿を見ながら思った。
 勢いに押されて、謝ってしまう。
「坊ちゃんだって、坊ちゃんだってこんなに立派な金髪赤目の卵なのに。そうなのですよ。だからこのわたくしめ、けして周りに坊ちゃんを軽く思われるような風には、坊ちゃんにはなっていただきたくないのです! 立派な主君としてずっとお仕えさせていただきたいのです。おわかりくださいますか?」
「うん……」
 小さな主の返事が固くなったことで、メイド長は我を取り戻す。
 目だけがうろたえるように、一瞬泳いだものの、すぐに申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「なんていうことでしょう。わたくしめ、許可されてもおりませんのに、一方的に好き放題におしゃべりしてしまいまして……」
 深々と頭を下げるので、小さな主は慌ててしまう。
「いや、……妙なことを言ったのは私だ。今回はな。……お前が、姉君の前で『お慕いしたくなる方』なんて言うから」
 言葉が尻つぼみになり、小さな主はまた顔を赤くする。メイド長が頭を下げているので助かった、とほっとしながら、なんで自分がこんなに恥ずかしがらないといけないんだろう、と少し思った。
 しかしまだメイド長は頭を上げない。
「坊ちゃんに三度もすまながらせてしまうとは……わたくしめ、自害いたします」
「自分好みに自分を罰しようとするな。そういうところだぞ」
 はあ、と小さな主は胸の奥からため息をついた。メイド長はやっと、ゆっくりと頭を上げて、微笑む。
「そう、今のが性癖の範囲ということをわかっていただけたのでしたら、もう安心でございますでしょう?」
「何をもって安心と言うのかわからないが……そうだな。こんなことをお前と話すこと自体、無駄だったのだとわかったよ」
 ――ただ、本当にこれからお前とやっていけるのか、確信は持てないな、とは小さな主は口にせず、机に置いていた本の一山を抱える。気分がもやもやとして晴れないが、きっと、読書をすれば忘れてしまえるはずだ。
「少々遅れての準備となりますが、何か読書に合うものを必ずお持ちいたしますので。坊ちゃん」
 メイド長が軽いおじぎをするのを横目に、「ああ」と小さな主は短く返事した。書庫のドアノブを握り、ドアを開けて部屋を出る。キィ、とドアを閉めるかすかな蝶番の音が、自分の不満や不安にも蓋をする音に感じられた。
 ――そう見られたって困るが、異性でもなく、ご主人様でもなく、まだただの『坊ちゃん』でしかない自分と。メイド長とで。本当にうまくやっていけるのか。どこまで父さまが遺したものを、受け取れるのか、と。
 父も好んだかもしれない物語のように、うまくいくことを願いながら、小さな主は本の一山が腕からこぼれ落ちないよう、しっかり抱え直した。