10.家庭教師

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「そろそろ勉強を再開したいのだが……」
 小さな主がそう言うと、メイド長は「まあ」と驚く声をあげた。
「ご自分からそのようにおっしゃられるとは」
 その笑顔が自分を褒めようとするものだと気づいて、気恥ずかしさから慌てて、
「跡継ぎになるのなら当たり前のことだ、そういちいち褒められるようなことじゃない」
 と牽制するが、それで言葉をひっこめるようなメイド長ではない。
「坊ちゃんに学んでいただくようなことは何もございませんよ。世界が坊ちゃんの基準に合わせるべきですので」
「うん……」
 予想以上の大褒めが帰ってきて、言葉を失う。
 小さな主は困っていた。
 照れたり嬉しく思うことすらできないほど、自分のやることなすこと何でも褒めらてはたまらない。メイド長が自分に向ける感情であったり扱いについては慣れてきていたが、それは奇天烈な言動に慣れると言うことでもあり、その中で小さな主は冷静にとある事実に気づきはじめていた。
 父が生きていた頃、屋敷の中でどうしてメイド長と自分が顔を合わすことが少なかったのか、その理由がわかってきたのである。
 メイド長が多忙な父に付いて、屋敷の外へ出かけていたことも一因だとは思うが、そもそも彼女は自分の教育にあたって――あまりよろしくないと思われていたのではなかろうか。
「うん……、教育によろしくない……、ないと思うんだ」
「わたくしめの存在についておっしゃられておりますね? 申し訳ございません、わたくしめは、偉大なる金髪赤目の坊ちゃんからすれば不出来ですもの」
 察しは良いのだが妙にズレた解釈をするメイド長に、そういうことではないからと小さな主は首を振っておく。そしてため息をついた。
 自分のために家庭教師を雇わなければ、と考えるが、どうやって今の自分にふさわしい家庭教師を探せばよいかわからない。
 メイド長にどう話そうかと考えていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
「……この気配」
「気配……?」
「坊ちゃんの叔父君ですね」
 なぜ気配でわかるのかと聞こうとしたが、一族の中でもとりわけ会うことのない相手の来訪に驚く気持ちが勝って、声が出なかった。
   
「おじさま。その、先日は……」
「晩餐会、お疲れ様だったね。ゆっくり話をする時間がなかったから、こうして顔を出させてもらったよ」
 椅子に上品に腰掛けながらも気さくな口調で話す叔父に、小さな主は穏やかな日だまりにあたった時と同じ気持ちになった。
 叔父は屋敷から離れた海の近くの領地を治めており、今までは一族全員で集まる場でしか会ったことがなかった。物静かでいつも穏やかな雰囲気をまとっており、あまり話したことはないが、対面しても緊張しないでいられた。
 目は赤い。しかし髪は銀色で、色々と父とは対照的な人だ、と小さな主は思う。
「そうきましたか」
「メイド長も元気そうで良かったよ。オレは君のことも気になってたからね」
「ありがとうございます。ですが肉親の方々の悲しみに比べれば、一介の使用人であるわたくしめの心痛はご心配いただくほどには及ばないかと」
 メイド長のいつもの悪い性癖が出かかって小さな主は眉をしかめたが、叔父は片手をひらひらと振って気にするなとジェスターしながら、メイド長に話しかける。
 久しぶりに見る、まともかつ寛容な大人だった。
 感心してぼうっと見とれていると、叔父は優しく笑う。
「ああ、顔色が良いね。良かったよ」
「私のことまで心配してくださって……、すみません」
「心配するのはもちろんだよ、家族だからね。ただ、ほら……、うちは皆、気が強いだろう? それは美徳でもあるけど、そんな皆が色々バタバタしている時に、オレまで口を出すと賑やかになりすぎると思ってね。すぐに君を支えに来てやれなかった。すまない」
「い、いえ。そんな、とんでもないです」
 叔父が想像していたよりも自分を気にかけていたと知り、その温もりに小さな主は動揺した。どうして今までこういう人だと知らなかったのだろうと不思議に思うと共に、自分の気の弱さを叔父なら否定しないだろうし、叔父が自己主張の強いタイプでないとわかったことで、心の中にいっぺんに親近感がわいてくる。
「えっと、それで今日はどういったご用で来てくださったのですか?」
「そうそう。突然やって来て、いきなりこんなことを言うのもどうかと思うんだけど……」
 叔父は眉尻を下げて笑う。
「差し出がましいかもしれないけれどね。家庭教師をやらせてもらえないかと思って」
「えっ……」
「無理にとは言わないよ。今、雇ってる先生がいるなら……」
「いや、いえ! ぜひお願いしたいです」
 ちょうど悩んでいたことについて提案を受け、飛びつくように返事する。すぐに我に返って、あまりに勢いよく返事したことに赤面するが、叔父は気にせず笑みを更にゆったりと深くした。
「君が前向きに希望してくれるのなら。じゃあ、さっそくだけど、明日からここに通うようにしてもいいかな?」
「はい……! ありがとうございます、おじさま」
「よし、それじゃあオレは準備をしにかかろう。また明日、よろしくね」
「また明日って……、もうお帰りになるのですか?」
「要件だけですまないね。でも積もる話もあるし、それは勉強の休憩時間にでもたっぷり話そう。お楽しみに」
 玄関まで送ってくれるのはメイド長だけでいいよ、と立ち上がり、一つも仰々しさも喧噪も不穏さもなく去っていく叔父。
 その背中を見て、小さな主の胸の中には安堵が広がっていった。
   
「本日はお越しくださいましてありがとうございました」
「かわいい甥っこ君の様子からすると、タイミングも悪くなかったようだね。こんなことじゃないかと思ってた」
 眉尻を深めに下げながら、叔父はメイド長に微笑んだ。
「まあ君は、きっとオレがどこかのタイミングで彼の教育係を申し出るだろうから大丈夫だろうって、そう読んでたんだろうけど。さっき会話に一切口を挟まなかったことを考えるとさ」
「買いかぶりすぎでございますよ」
「またまた。君は知ってるじゃないか、オレが何か育てるのが好きなやつだって」
「ええ。でも来る者拒まず、去る者追わずの、干渉を控えめになさるのが主義の方でいらっしゃることも存じておりますから……」
「から?」
「干渉して育てるに値すると、そうお感じになって今日お越しくださったのだとすれば。それはやはり坊ちゃんが素晴らしい金髪赤目の卵である、その事実があるだけにすぎません。わたくしめは読んでいたというより、坊ちゃんの万物を手元に寄せる未来を信じていただけでございます」
「はあ、言うねえ。兄さんがいなくなって、君がおかしくなったなんて皆言ってるけど。前からのことで、別に何も変わってない」
「そうなのですよねえ。わたくしめ、今まで無口すぎたかとは反省しておりまして……」
「君がこんな人だと知っていたのは、オレと兄さん、義姉さんだけだったのか」
 わずかに呆れを表情に出す叔父だったが、メイド長ははつらつとする。
「わたくしめがどう思われようがそれは良いのです! 坊ちゃんに有利に働く内は。それにあっという間に、わたくしめより坊ちゃんの噂をせずにはいられなくなるでしょうから。光り輝く素晴らしい後継者として!」
「まあ、オレもそうなるよう望んでるよ。兄さんもきっと望んだだろうし。一族の力の均衡やら子どもたちの行く末やらを考えてもね」
「そうおっしゃっていただけて、わたくしめも大変心強く思います。どうぞこれからよろしくお願いいたしますね」
 嬉しそうに礼を言うメイド長に、叔父は少し黙ってから、目を伏せた。
「……偉そうに言っておいてなんだけど。本当はね、オレがあの子を育ててみたいと思ったのは、この間の晩餐会で、麗しの姪っこちゃんをかばったのを見たのがきっかけなんだ」
 叔父の静かな声に、メイド長は首をかしげる。
「そうなのですか? 手元に引き取ることを考えておられる話は、小耳に挟んでおりましたが……」
「不自由なく暮らせるようにするつもりはあったよ。でもそれは、ひどいことを言うけど……。兄さんそっくりの彼が、みじめな感じになってほしくなかったというか。オレは見たくなかっただけなんだ、兄さんの顔がめそめそするところなんて」
「……叔父君のお気持ちをとがめる者はおりませんよ。仲の良いご兄弟だったのですから」
「すぐ引き取らなかったのも、悩んでいたからだ。正直、中身が兄さんに似ていないことを責めないでいられるかわからなかった。彼もそのことに明らかに苦しんでいて、兄さんが生きていた時からいっぱいいっぱいで、義姉さんの後ろに隠れて……。その苦しみをオレは和らげてやれるとは思わなかったんだ。そんなオレでは到底、兄さんや義姉さん代わりの保護者は務まらないだろう?」
「僭越ながら、そこまで坊ちゃんのことを想っていらっしゃるだけでも、わたくしめ、叔父君はご立派な方だと思います。それに今はもうその悩みも解消なさったのですよね? 晩餐会での坊ちゃんのご勇姿を見て、父君と同じものを持っているのがおわかりになったのでしょうから!」
「ああ、あの一件のおかげでね。今は育てたい欲求を感じてるよ。彼と、君とをね」
「わたくしめも……でございますか?」
 メイド長は目をしばたかせた。叔父はやっと伏せていた目を開けて、また眉を下げた笑みを浮かべる。
「彼にも育てる魅力を感じたけど……、オレは君にも興味がわいた。いつも兄さんの陰にいた君が、陰から出てきて彼の隣に立って、これからどうなるのか俄然知りたくなったんだ」
「わたくしめとしては、父君の陰にいたということであれば、同じく坊ちゃんの陰にいさせていただくつもりですよ? 特に改めてご興味を持っていただくほど、変わり映えすることはないかと思うのですが」
「でも兄さんと君の関係、彼と君の関係は、今の時点では全然違うだろう? 彼が育つことで君がどうなるか見てみたい。このオレが育ててやるからには何かおもしろいことが起こるだろう、そんな気がするんだ」
「うっ……、叔父君が金髪でさえあれば心停止待ったなしだったのですが……」
「だろう? 少し兄さんの真似をしてみた」
「さすがご兄弟。やはり根が似ておられるのですね」
 メイド長は心臓のあたりをさすりながら、息を整える。
「ではわたくしめも温かく見守っていただくとして……、そういえば叔父君。坊ちゃんの授業のために、こちらで用意しておくべきものはございませんか?」
「ああ、そうだなあ。……馬かな?」
 叔父は目線を上に向けて、思案する。
「乗馬の訓練をなさるのですね?」
「体力作りにも乗馬はいい。それにそろそろ領地に顔を出さないといけないだろう? 兄さんは馬車をほとんど使わず、馬に乗る人だったから……」
「なるほど。民からすれば、先代様と同じ姿であればあるほど安心できますものね」
「兄さんの飼っていた動物は何匹か譲ってしまったのは知ってるけど。馬はまだいるだろう?」
「ええ。……ですが一匹なのです。他は、世話人が乗って逃げてしまいまして」
「……まさか、その一匹って」
「……坊ちゃんならきっと、乗りこなされる日が来ます!」
「……」
「そう微妙な顔をされずとも大丈夫です! 乗馬の授業までに一度、坊ちゃんには馬と顔合わせしていただきますから」
「あー……、乗馬の授業は明後日ぐらいからはじめることにするよ。一応、うちから大人しいのを一頭連れてくるようにもする」
 二人の頭には一頭の馬の姿が思い浮かんでいた。片方はその馬の背に乗る金髪赤目の少年の姿を信じていたが、片方はただ頭を振る。
「兄さんを目指させる、か……」
しかし頭を振っても、もはや自分も期待を捨てられそうにはないと気づき、楽しそうに目を細めた。
「やはりハードルは高いが、育て甲斐があるとも言えるな」