11.白馬

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 叔父から楽しく授業を受けた後、翌日の授業までにやってみるようにと出された課題を解いている最中のことだった。
 視界の端に奇妙なものが映ったのは。
「なん……、」
 今のは、馬? と脳裏に駆けていった様が焼き付く。
 廊下を馬が走って行った、ように見えた。小さな主は恐る恐る、廊下に出る。
 廊下の突き当たりに、馬がいた。
「わ……、メイド長? 馬が! 馬が逃げてるぞ!」
 驚いてメイド長を呼ぶと、馬は耳をぴくりと動かし、ぱかぱかと蹄の音を軽快に響かせながらこちらへ歩いてきた。小さな主は部屋に逃げ帰るべきか一瞬迷う。しかし馬は別に興奮しているわけでもなさそうで、幼い自分が何度か乗ったことのある躾けられたポニーを彷彿とさせた。メイド長が来るまで捕まえておくべきだろうと考えた小さな主は、自分から馬の方へ歩み寄る。
「手綱と鞍が付いてる……」
 手綱を握り、ひとまず馬を確保する。馬小屋の方からいななきが聞こえることはあったので、まだ屋敷に馬がいるのは知っていた。そしてこの屋敷内で、乗馬できる準備がされているということは、乗るのは自分であるはずだ。
 まだ完璧に乗りこなせるわけではないが、馬は好きだった。だから何らかの理由で乗る必要ができたのだとしても、それは構わないが、どうして馬が屋内に入ってしまったのかは不思議である。あのメイド長がそのような失敗をするとは思えない。
「……おかしい。メイド長、おい、どこに行ったんだ?」
 そもそも自分が呼んでいるのに、メイド長が来ないのが異変中の異変だった。呼ぼうと思ったらもう傍にいることがあるのが通常運転なのだ。なのに自分が何度も呼んでいるのに返事すらしないなんて――小さな主は青ざめる。
「ヒヒン!」
 突然馬がいななき、小さな主は体を跳ねさせた。
「ヒヒヒン!(……ばしくださいませ)」
「え?」
 馬のいななきに混じって、人間の言葉が聞こえた気がした。
「ヒヒヒヒン!(お乗りあそばしくださいませ!)」
 間違いなく馬のいななきと、人間の声が二重奏している。
「……メイド長!?
 いななきは馬のものだが、人間の声はメイド長のものだった。
 小さな主は目を丸くし、より一層顔色を悪くする。
「そんな……、今度は何をしたんだ? 神様にお願いしたのか? 悪魔と契約してしまったのか? おまえは……、おまえは確かに変わってるし魂もちょっと汚れてるかもしれないけど、でも、邪悪じゃなかったのに! こんな天罰か呪いを受けるようなやつじゃ……!」
「あの、坊ちゃん」
「な、なんだ! 何かしてほしいのか? 人間の言葉がまだしゃべれるならやりようも……!」
「わたくしめの神様は坊ちゃんですし、坊ちゃんの魅力に勝る悪魔の誘惑もございませんから、わたくしめは大丈夫ですよ」
「……思ったより中身はいつもどおりだな」
 小さな主は一気に冷静さを取り戻した。馬になってもメイド長はメイド長だった。
「そんな姿になっても……なんというか、困ってないのか、おまえ」
「驚かせてしまって申し訳ございません。こちらいわゆるハリボテでございますので、わたくしめ、脱げば人間に戻るのです」
「どう見てもハリボテに見えないのがかえって怖い」
 真相がわかったところで、全くほっとする気持ちにはならなかった。何をどう見ても本物の馬にしか見えない。ハリボテという域を超えすぎていて、自分の目がおかしくなったのではないかと思えた。
「脱げば人間に戻るって……、童話ごっこがしたかったのか……?」
「素敵な発想ですね」
「いやまったく、そんな精密な馬の格好をする理由がわからなさすぎて。私の発想ではこれが限界なんだ」
「馬の鳴き声と人間の言葉を同時に発するのが久しぶりで、ご説明が遅くなってしまい申し訳ございません。実は叔父君から、明日乗馬の訓練をすると聞いておりましたので、久しぶりに坊ちゃんに馬がどういう生き物であるか思い出していただこうと思いまして」
「そのような仮装をしたと?」
「ええ。まだお勉強中でしたので、廊下で少し四足で走る練習をしていたのですが……、気を散らしてしまいましたね。うかつでした」
「気が散ったことはそう問題ではないというか、他に言いたいことが多すぎるんだが……」
 小さなは主は馬の足をじっと見た。
「どうやって歩いてるんだ」
「顔や首、胸と前足のハリボテ部分は空洞になっており、わたくしめが入っております。背中や後ろ足などは同じくハリボテですが、クッションとちょっとした絡繰りを入れております。わたくしめが歩きますと絡繰りも動いて、後ろ足が軽快に進むといった仕組みでして、坊ちゃんにはご心配なく快適にお乗りいただけますかと」
「熱意と工夫がすごい」
「当然です、馬に乗れるというのは貴族の方に必要なたしなみですからね。わたくしめ、坊ちゃんにぜひ乗っていただきたいのです」
「馬に、だよな? 本物の馬に乗ってほしいのだよな?」
「わたくしめ、まだ拝見したことがございませんが、坊ちゃんが乗馬服で乗馬鞭を携えていらっしゃる姿……さぞ支配的で素晴らしいものなのだろうなと!」
「落ち着いてくれ、頼む」
 とんだ暴れ馬が目の前にいた。手綱を放して後ずさりする小さな主の姿に、顔は見えないが中身がにっこりと微笑む気配がする。
「なんとか落ち着いている方でございますよ。プランとしては、わたくしめが四つん這いになって背中に乗っていただくというものも検討しておりましたから」
「せっかく実行しないところまで踏みとどまれたのなら、言わないでほしかった……」
 暴走する性癖が恐ろしく、じわりと目の端に涙が浮かぶ。久しぶりに泣きそうになっていた。
「おまえ……、さてはそのハリボテを被っているせいで、あまり前が見えていないのだろう」
「心の目では見えております!」
「曇った心で見られてもな……。今、私がどんな顔をしているかわかるか?」
「いつもどおり天使のようなお顔をされているのでしょう?」
「そうか、もともと認識と言葉の受け取り方が歪んでいるのだったな。だったら被り物のあるなしは関係ないのかもしれないが……、脱げ。脱いでくれ、それ。私が、おまえの表情が見えないとやっていけそうにない……」
 ご命じであれば……とメイド長の声がしたかと思うと、馬は後ろ足の蹄を三度、踏みならした。
 パッとハリボテが消え、少し髪の乱れたメイド長が現れる。
「ハリボテ……?」
 本当に童話に出てくる魔法か何かなのではないか、おまえは魔女なのかと、小さな主は不審な目を向けたが、メイド長には通じない。
「さすがのわたくしめも、無から有を生み出すことはできません。明日の授業のためにも、言うことをきく馬に少し乗っていただければと思ったのですが……」
「だからって馬になるな。だいたい、馬ならまだ屋敷にいるだろう? 私もいななきを時々聞く」
 珍しく、メイド長が黙り込んだ。少し困ったような顔をしている。
「……何か問題があるのか?」
 小さな主が戸惑うと、メイド長はますます困ったような顔をする。
「いるにはいます……。父君の乗られていた馬が」
 メイド長が歯切れの悪い返事をするのは、はじめてのことだった。
   
「ああ、この馬は……」
 うまやまで来て、小さな主は察した。
 真っ白な体というだけでも目立つのに、普通は黒いはずの瞳が、青い。
 ただ目があうだけでもぎょろりと睨まれているような錯覚を覚える上に、懐かず平気で蹴ってくると世話係が怯えていると聞いたことのある――荒れ馬。
「おまえが、私が乗れないと思うのも当然だな」
「坊ちゃん。わたくしめ、そうは思っておりません」
「気休めはやめてくれ」
 メイド長は真剣な顔をしたが、まったく励まされない。
「むしろ乗れないと思われたほうがいい。私もこの馬に乗るのは無理だ」
「父君が乗られていたのですから、坊ちゃんも当然できますよ」
「父さまと私は違う!」
 メイド長がそう信じる人間だということはわかっていたはずだったが、思わず声を荒げてしまう。すぐにメイド長が言い返してくるかと思ったが、静かなままだった。
 その静けさに、手のひらが泡立つような嫌な感覚がする。
 一方で、メイド長もうろたえていた。
「……わたくしめ、本当に。坊ちゃんも乗りこなされる日が来るとは信じております。ただ、申し訳ありません。どうやって乗る練習をしていただこうか、方法が思いつかないのです」
「構わない。私だってこの馬の話は聞いている。父さましか背に乗せないのだろう? 気位が高くて、餌をやるのにも人間側の態度がへりくだってないと、平気で蹴り殺そうとしてくるらしいじゃないか」
「事実にございます」
「……練習どころか。今も不機嫌そうにこちらを睨んでくるんだ。私もこれ以上、近寄りたくない。というか近づいて蹴られたりしたら……、どうせおまえは私をかばうんだろう。そのせいでおまえまで亡くなったら、わたしは……」
「あ、その点は大丈夫です。わたくしめ、馬に蹴られたぐらいでは死にませんので」
「は?」
「お目にかけますね」
 真面目に話をしていた重い空気も気にせず、メイド長は荒れ馬の厩の中に入り、背中側に回る。
 止める間もなく、馬の脚がメイド長を蹴った。
 ダン、と大きな振動が地から伝わってくる。
「おい……、」
「ほら、問題ございませんでしたでしょう?」
 小さな主の心臓は早鐘を打っていた。だというのにけろっとした顔でメイド長は傍に帰ってくる。
「け……怪我は!?
「ぴんぴんしております。打撲さえしておりません」
 にこにこと笑うメイド長の顔を、小さな主は呆気に取られた顔で見たが、すぐに口を引き結ぶとその手を掴んで、甲をバシリとはたいた。
「ありがとうございます!」
「礼を言うな。礼なんか……」
 小さな主はメイド長の手を掴んだままだった。その厳しい表情は崩れない。
「わたくしめ、あの馬とは付き合いが長いのです。世話係という程ではなかったのですが、父君があの馬に手綱と鞍をお付けになった時も傍におりましたし、どうやらあの馬もわたくしめのことは仲間だと思っているようなのです。ですから蹴るのもそれなりに加減してくれるのですよ」
「そんな風には、見えなかったが」
「坊ちゃんにもその内、あの馬のことがわかるようになってきますよ。あの馬は金髪赤目様専用の馬なのです。わたくしめも背には乗せてくれません、恐れ多くて乗ろうとも思いませんが……。馬は今、坊ちゃんが主人だと理解できていないだけで、基本的な乗馬術さえ身につけていただければ、あの馬が背中を坊ちゃんに差し出す日は来ると思うのです」
「どうでもいい」
 聞いたことのないような低い声に、メイド長は口を閉じた。目と目が合う。
「どうでもいいんだ」
 繰り返される拒絶の言葉と赤い瞳の向こうに透ける感情に、メイド長は目を見開く。
「馬のことはおじさまに頼る」
 メイド長の手を離し、小さな主は屋敷へ戻っていく。
 心からの怒りを向けるのは、はじめてのことだった。