08.晩餐会①

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「兄上!」
 黒髪に赤目の少年が、嬉しそうに駆け寄ってくる。馬車から降りてぎこちなく固まっていた小さな主の表情も、ほころんだ。
「ご健勝そうで……良かった」
「心配することなんか無いよ、何も」
「もちろん、兄上なら大丈夫と信頼はしていますが……父上や義母上のことのみならず、そのせいで取り乱したメイドが出たと聞きましたもので」
 少年は微笑んだまま、小さな主の三歩後ろに控えるメイド長を見た。
 小さな主は、もう一度『心配することは無い』とは言えなかった。
 メイド長は恐縮するように目線を下げる。
「恐れ入ります……使用人などのことにまでお心痛めくださるとは、弟君」
「おや、思ったよりは傷んでいない様子、これならまだ大丈夫でしょう」
 穏やかな庭園の日差しを思い出させるような温かい微笑みとは裏腹の物言いに、小さな主は言葉に詰まる。
 メイド長はその言葉に、期待するように勢いよく目線を上げたが、黒髪を見て
「そっちかあ!」
 と残念そうな声をあげた。
「あー、やはり傷みがひどい様子、僕の家の使用人などを差し上げましょうか、兄上」
 弟の笑みが深くなったのを見て、小さな主は短く「いや、」と言ったものの言葉が続かず、胃がチクリと傷んだ。

「わたくしめ、先ほどは思わず……いえ思っていたことがそのまま口から出てしまい、大変申し訳ございませんでした」
 弟は屋敷の中に二人を案内すると、次の来客を迎えるために慌ただしくいってしまった。慌ただしいながらも、最後までメイド長をうろんな目つきで見ていた弟に、申し訳ない気持ちになる。
「謝るなら弟に……というより、お前、わざとだろう」
「なんのことでしょう。ただの魂より出た言葉です」
「どうして神様はお前の魂をそう、真っ正直におつくりなさったのだろうな……」
「坊ちゃん、最近はわたくしめに対しての皮肉もお上手になってこられました。これは王道の金髪赤目です。その調子で今晩は周りを坊ちゃんの魅力で圧倒なさってくださいませね」
 小さな主は目をギュッとつぶって手で眉間を抑えた。
 腹違いの弟とはいえ、年子のためにほとんど年の差は無い。そのはずが、義弟は自分より聡明で大人びていて、そのくせ自分を兄上と嬉しそうに慕うものだから、義弟には姉とはまた違った気遅れを感じてしまう。
 義姉が華々しさで大人を魅了して手玉に取るタイプなら、義弟は大人を感服させて気に入られることでうまく立ち回るようなタイプだ。
「それでも、今日の集まりの中では、あいつが一番気安いな……」
「弟君は坊ちゃんと仲良くしたいとお考えですものね。ですが……」
「ああ、わかってるよ」
 キリリと胃が痛むような気がした。父母を亡った時の痛みとは違う、胃の中に何かが重苦しく渦巻く。
「弟に会えるのはむしろ楽しく、喜ばしいことだが。いつ来てもこの屋敷にだけは歓迎された試しが無いからな」
 特に今日みたいな日は、と言おうとして、無意識に緊張が高まったか、声がかすれそうになり、言うのをやめて咳払いする。
 メイド長は小さな主が言わんとすることを引き取る。
「ご親族の皆様が集まっての晩餐会とは、久しゅうございますね。特に坊ちゃんはそうでしょう。幼少の頃以来でしょうが……大丈夫ですよ。わたくしめは父君の忠実なる僕として何度か顔を出させていただいておりますし、もし坊ちゃんのご存じない方がいらしても、こっそりお教えいたします」
 その親切さに縋りつきたい、と思いながら、喉元までこみ上げる不安で呼吸がつぶされないようにしながら。
「……知らない人間より、知っている人間の方が問題なのだが、それでも」
 それでも後継者の意思表明をここでしなければ、と歩みを進める小さな主の後ろにメイド長は従い、二人は食堂へ向かう。

 毎年一度、血縁の家の者の何人かが代表として集まって、近況報告などを兼ねた晩餐会を楽しむという習わしが父親の一族にはあり、今年は弟の屋敷で開かれているのだった。血縁関係にある家というのはおおむね、父親の実家―現在は父の弟が継いでいる家、それから父親の初めての妻の家―つまり姉の母方の家、続いて二番目の妻の家―弟の母方の家、そして自分の家―もはや家の当主たる自分とメイド長しかいない家だ。
 はじめてついた家庭教師から勉強したのは家の歴史だった。曰く、父親の実家はもともと、商人から成りあがって貴族の位を与えられた家だったが、二代目で没落し、三代目である父の手により再興したものだという。その再興のために政略結婚をしたのが、地元で一番の有力者の娘だった姉の母だったとか。そして父親の力が世間に轟きはじめ、貴族としての勢いも完全に取り戻した時に、過去に王妃を輩出したが気位の高さ故に政敵の多かった弟の母の家から声がかかり、また政略結婚により縁を持ったという。
 ……家庭教師はなぜか母さまのことを話さなかったので、不思議に思って母さまに無邪気に『馴れ初め』を聞いてしまったのだが、家庭教師が母さまの話をしなかったことに父さまが腹を立てて翌日にはクビになってしまったのは、少し、告げ口したようでドキドキしたものだ。
 それが母さまを愛するが故に見せた父さまの苛烈な強さだったことは、母さまの出自をその時には知っていた自分には理解できて、周囲の使用人たちが怯えるよりは、自分が「父親にそっくりな外見」に生まれたことを誇らしくさえ思ったものだ。いつでも、自分を好きになれなくて、父親の偉大さに隠してもらう自分でも、外見だけは心の底から好きだった。
 きっと―数年前よりは、上手に無表情が作れているはずだ。
 嫌な記憶を飲み込むように、目の前の料理を飲み込む。
 他の使用人と同じように、自分から離れた壁際の方にメイド長が控えているはずだが、その距離感がやたらと遠く感じられる。
「……兄上、いかがですか? お気に召しましたか?」
「ああ。とてもおいしい」
 親族に順番に話しかけていた弟が、ホストとしてゲストである自分に話しかけてくる。
「良かった。実は兄上が少しおやつれになっていやしないかと、母上と僕ともども、心配しておりましたから、お食事の内容も色々考えたものでしたが……しかし、杞憂だったようですね。デザートは兄上も以前気に入ってくださった、うちで取れたさくらんぼを用意させております。今宵の夕餉はぜひ最後までお楽しみください」
「気遣ってくれて……ありがとう」
 弟の流麗な話し方に、もう少し気の利いた言葉を返したかったが、とっさには思いつかない。胃の底にずっと重石が転がっているようだった。
 背後で、ほんの数秒だっただろうか、カサリと紙のこすれる音がした。
 ……ああ、私が『弟の領地のさくらんぼを気に入っている』とかなんとか、メイド長が書き留めたのか。と小さな主は少し意識を飛ばした。
 メイド長は、これまで知らなかった自分の情報があるたびに、全く手の動きは見えないのだが何かカサカサと音がするので、たぶんメモを取っているのだ。律儀なことである。……しかしそういえば、緊張であまり感じられてはいないが……確かに弟の用意したはずの料理はおいしく……それなりの腕前の料理人を雇っていなければ食べれないものなのだが、いや、久しぶりに自宅を出て料理を取ったが、最近口にするメイド長の料理のレベルと変わらないというか……これはメイド長がおかしいのであってけなす意図はないのだがいやメイド長とはいったい……?
 などと意識を飛ばしすぎている自分に気づいた時には、その場に集まった全員が自分に注目しているまなざしと、自分の方に険のある視線を飛ばしている夫人の顔があった。
 ドキリと心臓が跳ねる。
「―あら、聞こえてなかったようね。数年ぶりに会ったというのに随分なご挨拶だこと。それともあの方に私を無視するようにとでも遺言されたの?」
「い……いえ。失礼しました、男爵夫人。お久しぶり、です」
「あなたは私に会いたくなかったのでしょう、本当に久しいことだわ」
 会いたくなかったのは事実のため、返す言葉もなく、無表情で口を閉じる。
 おばさま、お酒がすぎますよ、と弟のかばう声が遠くに聞こえるが、嫌な声はガンガンと耳元で大きく聞こえるようだった。
「坊や、あなたはお酒が飲めないのだから、すぎるとかすぎないとかそんなことわからないじゃない? ……それに私が声をかけたのはね、何年前だったかしらね、まあ時間が経つのは早いというでしょう、忘れてしまったけれど……。その子に一言謝っておかないとねとずーっと思っていたからねえ」
「……まさか、男爵夫人に謝っていただくようなことは何も、」
「ごめんなさいねえ。はじめて私たちの晩餐会に顔を出した夜のこと……よくわからないけれど、私のせいであなたは来ないとかなんとか、散々みんなから言われちゃったし。うちの素敵な坊やにもずいぶん叱られたのよ、だから今後は顔を出してちょうだいね。あの方亡き今はあなたしかもういないことだし」
 場が一気に冷え切ったが、男爵夫人は静かに微笑んでいた。テーブルの向こうで何人かは身じろぎしたが黙っている。それが、夫人が厄介な相手である以上に、自分の力量を試すために静観しているからだということはわかった。
 しかし、数年前に黙って青ざめるしかなかった自分の姿が脳裏に浮かびあがって、今の自分と同期して、口を開くことすらできない。夫人は口元の微笑みは深くしたが、目の色はより剣呑な迫力を帯びている。
「私が事実を言うとね、いつも怒られちゃうのよねえ。でもあなたももう許してくれるでしょう。私がみんなに責められた原因の、元凶の女も消えたのだし。……ああー、こういう言い方が駄目だってことよね、事実を言うのは良くても言い方ってものがあるわよねえ。失敬!」
 姉が座っているらしきところから不機嫌そうに椅子に座りなおす音がしたが、どうやら体の向きを変えて顔をそむけただけのようで、そう、助けはなかった。
「つまらない領民の娘……貧しい羊飼いの娘ふぜいをくさしてこの私が怒られるなんてね。あの方は私の格を見誤ってばかりの愚か者だったけれど、あの方がみんなを味方につけるのは上手だったんだもの、集団でいじめられては私はかなわないわよねえ?」
 誰も何も言わない。夫人は息継ぎのように、ワイングラスを傾けて一口飲んだ。
「ふふふふふ、どうしたことかしら、なんで今晩はみんな私を咎めないの? 数年前に母親をありのままに馬鹿にしただけであれほどうるさく言ったくせに、その息子がまたここにきて同じ目にあっているのに? ああ大人はひどいわねえ、うちの坊やもそのお姉ちゃまもなんて賢いこと、でもあなたもノコノコやってきたのだからわかってるわよねえ、後継者争いってのはこういうことだと!」
 ワイングラスの中身がまた一口減り、せめてあのグラスの中身が全て無くなるまでは自分は絶えねば、と小さな主は自分の体の震えを表に出さないように努める。
「ふふふ、ふっふふ! ここまで言われても無表情なのね。そうね、あなた、本当にあの方によく似ているもの」
 またワインが煽られる。ああでも、ほとんど減っていない。自分を肴にゆっくり楽しむ気か。
「泣くことも笑うこともない……その鋭い目つき。なんて人間らしさが無いんでしょう、嫌になるわ。そういうところまであの方と同じね、あの方の死に顔も何も変わらなかったし。私がいつも見ていた無表情から、まぶたを閉じさせて不快な視線をさえぎったぐらいのものだったわ」
 今日この場に挑む頼みの綱が、自分の姿だけだということがどれほど頼りにならないものかは知っていたが、それでも、なんとか持っていた自分と父親の繋がりそのものさえ容赦なく貶められ、情けないとどれほど思おうとも、ただこの場をやるすごして耐えるしかないぐらい、自分が萎縮していく。
「そんな顔を……あなたの顔なんかをみんなお人形さんのように綺麗ねだなんて言って……、それって心が無いようでぞっとするってことだわね? 血も貧民ふぜいが混じって……けがらわ」
 パキッと乾いた音が響き、夫人はそちらを向いた。姉の手の中で、強く握りしめられたか、真っ二つに折れた扇子があった。
 あれも肴にしよう、と笑う夫人の顔が目に入った。小さな主は、自分がふがいなく黙っていたせいで、姉が―有力者とはいえ身分は村人の母を持つ姉が、これからけなされるのは、自分のせいで、それだけはいけない、と咄嗟に立ち上がった。
「ねえ、さまは―姉さまの、」
 頭が真っ白だ。血が不愉快に体の中で泡立つような、口が痺れてうまく動かないような。
 地上の空気がもたついて、溺れるような、そんなうまく動かない自分に、向く視線の主は―。
「―空気が乾燥してございますからね! 姉君の繊細なお指が傷ついてはございませんか? ぜひこの金色と深紅で彩りました扇子を代わりにお使いくださいませ」
 姉の隣に立っている、メイド長だった。
 この場の空気を全く気にしないような、ニコニコとした顔の。
 気のせいかと思うほどの一瞬、しかし確かに目が合ったが、ハッとした時にはメイド長は恭しく頭を下げて姉に新しい扇子を差し出していた。
「あ、はあ、うん……扇子……、金……と赤……?」
 姉はメイド長の差し出した扇子と、メイド長のつむじとを交互に見た。そしてソロソロと手を伸ばして折れた扇子と新しい扇子を交換すると、勢いを削がれたまま椅子にストンと座りなおす。
 慌てて姉付きのメイドが、椅子を引いて綺麗に座れるようにしていた。
「さて、僭越ながら男爵夫人様、」
 今度は自分のやや斜め後ろからメイド長の声がした。夫人は驚きで身をビクリと震わせたが、小さな主は慣れていたので動じなかった。
 その慣れが―不思議と、あっという間に小さな主を落ち着かせていった。
 メイド長のキリッとした声が響く。
「先ほどからお話いただいていることですが、先代様と我が主人へおっしゃることにしては、誤りが多いお言葉かと存じます」
 夫人は明らかに不機嫌な顔になった。
「何、あなた。ああ、いいえ、あなたが誰か訊いているんじゃないわよ。あなたとは何回か顔を合わせているわね、あの方を見かける場所では必ずいたメイドでしょう。……何様のつもり、ということよ」
「そこがいいんじゃないですか」
「……は?」
 全く会話は噛み合っていなかったが、あまりにもランランと輝く目をしたメイド長がそこにいるだろうことを、小さな主は慣れでわかっていた。落ち着くを通り越して脱力しそうなほど。
 そしてすぐにいやちょっと待てよ、ここで暴走されてもそれはそれでどうなんだ、と気づき、
「おい」
 ここまでならまだなんとか話をつなげようもあると思って、声を発したのだが、遅かった。
「そこですよそこぉ! 良くないですか?! 感情の見えにくい鋭い目つき……しかしその目の奥ではあれやこれや実際は色々考えていらっしゃる……っ、何かそこに深みがあって刺さってきませんか?!
 さ……刺さる? と夫人のとまどう声が、小さな主をさっきとは別の意味で焦らせた。
「この深みがわかるようになると世界が輝いて見えますよ! 深みというよりは奥行きでしょうか、あああわたくしめのような存在には全てをくみ取れないほどの……大海! 太陽にして大海!」
「おい!」
 なるほど、普段は金髪赤目である自分を敬おうとするが故に押しとどめていたらしい感情の奔流が、洗脳対象(たにん)に口を開いたことであふれ出してきたらしい。
 などと冷静に考えている場合ではなかった。
「どうです?! そんな風に目に見えないところまで見ていけば……うあっ胸が苦しくなってきた……」
「落ち着け!」
「ご命令とあらば!」
 胸を押さえて苦しむそぶりをしていたメイド長だったが、小さな主の声にサッと直立し、足に車輪でもついているかと思うような滑らかさで壁際へ下がっていく。
 姉と弟以外の人間全員が「……あのメイド、あんな感じだったか?」という顔をしていた。
「……うちの使用人が、失礼しました」
 小さな主はそう言うしかなかった。
 立ちっぱなしだったので椅子に座ろうと手を伸ばせば、メイド長が椅子を引いていた。
 そしてまた車輪の滑らかな動きで壁際へ下がっていった。
 ……なんなんだ、あいつ。
 小さな主は苦笑しそうになって、いや、場を荒らした者の主人が笑うのはまずいだろう、と懸命に真面目な顔を保った。
 そうか、場を荒らしてしまったんだ、とすまなく思って主催者である弟の方を見れば、弟はなんとも言えない顔をしていた。
 参ったなあ、という感情と、おもしろいという感情が混ざっているように見えた。
「……おばさま、さくらんぼはいかがですか。酔い覚ましにも」
 弟は気を取り直したように、おもむろに夫人に笑いかける。
「今年のさくらんぼはとびきり甘いそうです。明日の酔いの頭痛防止にもなりますよ、きっと」
 夫人は嵐にでも襲われたかのように混乱していたが、もう場のペースが自分に無くなったことを察すると、椅子を引かせ、黙ったまま座った。
 給仕係がデザートを運び出し、何事も無かったかのように晩餐会の終わりが近づいていた。