12.乗馬の訓練
「心の中で、何かに焦ってないかい?」
翌日、乗馬の授業がはじまって早々、叔父は小さな主に不思議そうに尋ねた。
「焦り……、ですか……?」
手綱を軽く引いて馬の脚を止めさせ、叔父に戸惑いを返す。
屋敷の敷地内の最もはずれにある馬場で、叔父の連れてきた馬に乗って訓練をしているところだった。久しぶりに乗るということで、綺麗に常歩(ウォーク)と速歩(トロット)ができるよう、手綱のさばき方や馬への指示の出し方を叔父に教わっていた。
「馬は賢い生き物だからね。背中に乗っている人のことをよく見てるし、その気持ちも察しているようなところがある。君が乗っている子は優しい子なんだ。背に乗った者にできる限り合わせようとしてくれる子で……」
「私に、合わせてくれてましたか」
「そうだね。少し足並みが乱れている。ところどころ急いだり、どことなく不安そうだったり」
「そういう感情を一つの言葉にするなら、たしかに、私は焦っているのかもしれません」
「……少し休憩しようか」
叔父は馬場の柵を越えて、馬の手綱を掴む。小さな主は腰を上げ、馬の背から降りた。
馬場の外に建てられた日陰棚(パーゴラ)の下、ベンチに腰掛ける。水差しとグラスを載せたワゴンが置かれており、水差しの中にはレモンとペパーミントの入った飲み水が入っていた。それを見て、用意した者の顔を思い出してしまい、小さな主は顔を曇らせる。
「そうだな、今日の積もる話は、せっかくだから馬の話にしようか。兄さんがよく乗っていた馬の話でも」
小さな主の肩が小さく跳ねた。叔父は気づかないふりをして、眉尻を下げて笑う。
「実は兄さんはね、乗馬は嫌いだったんだよ」
「え! 父さまがですか?」
「君の前では少しもそんなそぶりを見せなかっただろうけど。義姉さんが上手に馬に乗る人だったから、結婚してから積極的に乗るようになっただけで、結婚するまでは派手な馬車を乗り回してばかりだった」
叔父はグラスに水を注ぎ、どうぞと差し出してきた。受け取りながら、はじめて聞く父の話の続きを待つ。
「兄さんはね、支配するのが好きな人だったろう? そのくせ従順に振る舞うものが好きじゃなくてね。人の手で育てられた馬は、多少気が荒い程度じゃ、兄さんの雰囲気にすぐに圧倒されてよく言うことを聞くようになってしまうから、張り合いがないといって乗馬に興味を持てなかったみたいなんだ。馬術というのも、常歩させた時どれだけ綺麗にまっすぐ歩かせられるかとか、そういうことを競ったりするんだけど、オレや義姉さんがそういった馬との一心同体みたいなのも良いじゃないかと言っても、生き物を飼い慣らすのは気が進まないとか言い返すばっかりでね。……義姉さんは少しわかるみたいだったけど、今でもオレは兄さんの理屈や気分はわからないよ」
「ははは……。私も、あまりよくわからないです……」
「不思議な人だった。血を分けた弟でも、実の子どもでも……、わたしたちは違う人間だということだね」
「……そうですね」
「まあそんな兄さんだけど、馬好きな義姉さんが時々ひとりで遠乗りしてるって知って、やっぱり一緒に行きたかったらしくてさ。オレと義姉さんと兄さん、それからお付きのメイド長も入れて四人でピクニックに行った時のことだったかな。突然、山の主と呼ばれてる馬を捕まえて、自分の愛馬にしてやろうとか言い出したんだよ」
「さすが父さま、突拍子もない」
「しかも義姉さんとオレがのんびりサンドイッチを食べてる間に、本当に捕まえてきちゃったんだよ。兄さんもメイド長も葉っぱまみれになりながら、ふてくされた白い馬を引き連れて帰ってきてさ」
「白い馬って、まさか」
「そう、厩につながれているあの馬だよ」
「そんないきさつで、うちに来た馬だったとは」
「あの馬、来てからもずっと大変だったよ。兄さんが乗る時、必ず一度は背中から振り落とそうとするし」
「そうなのですか?」
「兄さんはそれがかなり気に入ってたようだけどね。背中から落ちるようなヘマはしなかったけど、だいたい兄さんも手綱を持ったまま馬場の中を一周するぐらい引きずられるのが、乗る前の儀式というか、準備運動みたいになってた」
「あの、父さまがそんなことになるのですか?」
「馬は気位が高い生き物だ。特に賢い馬だと、自分より下だと思ったやつのことは背に乗せてはくれない。だから馬から振り落とされたら、痛くても我慢してすぐに背に乗り直さなければならない……という話は、君も知ってるね?」
「はい。落ちたままになっていると、馬が自分より下の存在だと確信してしまうと教わりました」
「その通りだ。そして普通の馬は、多くても二度、三度、振り落としても乗られたら、こちらの言うことを聞いてくれるようになっていくものだけど……」
「あの白馬は、ずっと父さまを認めなかったのですか? 乗ろうとする度に、振り落とそうとするなんて」
「兄さんはそれを喜んでたけどね。そう思うと馬の方は迷惑だったかもしれないけど。……いや、でも厩を蹴り壊して逃げようとしないあたり、認めてはいたのかな。でも試してはいたんだろう、常に。自分の背に乗せるにふさわしいかどうかを」
「そんな、馬なんですか……」
「ああ。だから危なくてオレもあの馬には乗れない。常人なら誰でも乗れないし、乗せてはもらえないだろう。君は気にせず、違う馬に乗っていればいい」
「……」
「兄さんと全てが同じじゃなくて構わないんだ。馬に乗って凜としてるだけでも、充分君は立派に見えると思う。だから焦らなくていいんだよ」
「……ありがとうございます」
「……納得できないかい?」
「い、いいえ。あの、違うんです。心からほっとするような励ましでした。私が父さまと全て同じになれなくて、良いと言ってくださって。ただまだ、心がもやもやしていて、自分でもなぜかわからなくて」
「ふむ。いいよ、ゆっくり考えて話してごらん。話すより馬に乗った方が気分転換になるようだったら、オレに話さずひとまず馬に乗るのでもいいし」
「……昨日、あったことを話してもいいでしょうか?」
「もちろん。聞くよ」
「昨日、白馬を見た時。はじめてメイド長が私にも永遠にできそうにないことがあると思ったのがわかって……。ショックを受けたんです」
「ああ……、なるほど」
「メイド長が悪いわけではないんです。ショックを受けたというのも、悲しいというよりは驚いたというか悔しかったというか……。正直、私は今でも、一族の中でも一番できることの少ない人間なので、できないだろうと思われたり、失望されることには慣れてるんです。慣れちゃいけないかもしれないですけど、周りが優しく私に何かやらせないで済むようにする度に……悲しくもありますがどこかほっともしてました」
「気持ちはわかるよ。オレは特にわかるかもしれない。あのよくできた兄さんの弟だったから」
「でもメイド長は違って。私ならできるなんて言って励まして……乗馬のことだって励ましてくれました。でもどうしたら良いかわからないとも言って……。彼女はその、とんでもないじゃないですか? 私の未来に期待し続けて、手を止めるのをやめないやつです。なのにそんな彼女でさえ、どうすればいいかわからないと言われて……本当に私の力不足が問題なんだなとわかったんです。私はいつもそれがわかっても、じゃあ何もしなくてもいいんだって安心するだけで終わっていたのに。ぞわぞわと体の奥から……不安なような、急いで何かしないといけないような感情がわいてきたんです。焦り、なのだと思います。そんなのはじめてのことで、昨日から今までもずっと気持ち悪く手のひらや指先がぞわぞしていて……」
「はじめて、か。それなら逆にこれだけ話せているのが偉く思えるよ」
「……一晩寝て、少し落ち着いたからだと思います。昨日はもっとひどくて。メイド長にもひどい態度を取ってしまいました」
「大丈夫、彼女は使用人だ。少し主人に何か言われても流せるだけの仕事の腕前はあるよ」
「仕事……」
「あー、いや、少し仕事よりも私情も入ってるとは思うけど」
「メイド長の気持ちはありがたいんです。でもメイド長は昨日、私のために、自分の身を簡単に危険にさらして……、私はとても驚いたし怖かったし、なのに彼女はそれが当たり前みたいな顔をしていて、私が怒っても笑って、私は……」
「兄さんに仕えるのと同じように振る舞ったんだね。混乱してしまうのも無理はない。具体的にはどんなことをしたんだい?」
「白馬にわざわざ蹴られにいったんです。自分は馬に蹴られたって大丈夫だということを証明すると」
「うーん、またそんな女性、いや人間離れしたことを……」
「それで、私はどうしたらいいのかわからなくなってしまって。もちろん彼女に頼りきりにならないように、勉強して、成長しないととは思っていたんですが、私が成長しようとする中で、私のためにあんな簡単に危ないことをして……。父さまと違って私はできないことだらけなんです、だから私のできないことを補おうとメイド長がまたあんなことを気軽にしたら……」
「彼女はそうするのが好きなんだよ」
「そ……、そうだとしても。私は平然と受け入れられないんです。私の気持ちの問題なのはわかってるんですが……受け入れられなくて。彼女が悪いことをしてるわけじゃないのに。私はどうしたら……」
「君は優しいね」
「……臆病なだけです。力が無い上に、父さまと足並みを合わせることのできていた優秀な者を引き連れる勇ましさも持ち合わせてない」
「言ったろう? 君は兄さんとは違うと。だからそう思うのも無理はないし、白馬と同じで、メイド長とも兄さんのように付き合えなくていいんだ。率直かつ失礼なことを言えばね、オレはどれだけ君を鍛えても兄さんになれるとは思ってないんだ」
「……」
「メイド長は君が兄さんそのものになれると思ってる節があるし、君も理想像にしてるのは兄さんなんだろう。目指すのは悪くないし、オレとしても目指してはもらうつもりではあるけど……」
「おじさまは、私が父さまみたいになれないとわかっていながら、私に目指させるのですか?」
「そうだ。なぜかわかるかな?」
「すみません、わかりません」
「君は兄さんとあまりにも違う。真反対の中身を持ってるとさえ思える。けれど君はまだ漠然としか、兄さんと君の違いをわかってない。だからこそ徹底的に兄さんの真似をして、違いをはっきり自覚してほしいんだ。違うと思う部分こそが君であり、大勢の上に立つ君主となった時の芯になる部分だからね」
「違っても、良いのですか」
「真似できるところ、学べるところは身につければいい。今まで表面的な部分はそうしてきだたろう? その兄さんの遺した威厳に頼るのも子どもとして悪くない戦略だ。けれど本当に、兄さんに負けず劣らずの君主となりたければ、自分を兄さんで塗り潰してはいけない」
「……メイド長に、仕え方を変えてくれと言うべきでしょうか?」
「君がこんな風に悩むのなら、それは本当に君にとって大切な信念に関わる出来事だったんだろう。伝え方はまだ迷ってもいいと思うから、言いたいことがあるなら言うといい。使用人にビシッと方針を伝えるのは主人としても大切だしね」
「……考えてみます。もっと自分の気持ちを整理して、方針を決めるようにします」
「言い方が心配なら、メイド長に伝える前に私に話してみてもいい」
叔父の励ましの言葉に、小さな主は静かに頷いた。
「ありがとうございます。あの、私は……、とりあえず今はまた、乗馬の練習を続けてもいいでしょうか?」
「そうしよう。じゃあまた常歩からやってみてごらん」
手綱のさばき方は少しずつしか覚えられないのだと思いながら、小さな主は鎧(あぶみ)に足をかけて馬の背に乗る。
一方その頃。
メイド長は客を迎えていた。
「ようこそいらっしゃいました、弟君」
「相変わらずですか? メイド長」
微笑む黒髪赤目の少年を前に、メイド長は目を地面に落としながら「そっちかあ」とつぶやいたが当の少年本人は特に気にする素振りもなく、
「ああ、いつもどおり傷んでいるようですね」
とだけ言って客間の椅子に座る。
「忙しいかとは思いましたが、相談したいことがありましたから。突然の訪問です、お構いなく、話だけ聞いてほしいのです」
「坊ちゃんではなくわたくしめに用があるなどとは恐縮です。ご相談とはなんでしょうか?」
皆目検討がつかず、きょとんとした顔で尋ねるメイド長に、少年はにこやかなまま答える。
「僕と兄上で別荘に遊びに行こうと思うのです。父上亡き後、領地の様子はまだ確認しに行けてないでしょう? そろそろ顔を出した方がいいと思いましてね。そして――」
兄と同じ赤い目がキラキラと輝いた。
「僕はね。兄上の立派な姿を、領民に見せつけてやるべきだと思うのです」
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